高知県立図書館出版物リスト

土佐國群書類従拾遺

吉村春峰/編 全7巻
A5版/表紙布クロス張 箱入 350~600頁

土佐國群書類従の続編とも言うべき史料叢書
(価格はすべて税込金額です。)
第1巻、第2巻、第3巻、第4巻、第5巻、第6巻、第7巻 発売中!


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『土佐國群書類従拾遺』第1巻(神衹部、法度部)  10,285円

  第1巻は、巻1から巻11までを収めます。これらの巻は神社関係史料を収める神祇部と法令関係を収める法度部の一部に相当しますが、その内容の一部をご紹介します。
「土佐國神社帳」
 土佐一国の総鎮守、土佐一宮として人々の尊崇を集める土佐神社で、明治8(1875)年7月28日から30日にかけて執行された総社祭・山川海鎮祭・鎮火祭に関連する諸事項をとりまとめたものです。
「藤並明神御勧請之次第」
 土佐藩々祖山内一豊とその妻見性院、および2代藩主山内忠義を祀った藤並明神の勧請および遷宮の経緯を藩の触れ書き等の史料によって辿るものです。
「祭式類集」
 土佐国内の神社10社について、その由緒や神祭の次第等をまとめたもので、それぞれの社の祭式の様子を具体的に伝える内容となっています。
「土佐国諸社什器纂」
 安芸郡崎濱(佐喜浜)村八幡宮をはじめ、土佐国内12の神社の社宝等を図もまじえて記したものです。
「寛永六年御定目」
 藩が陸の関所たる道番所に対して、国境の出入りについて監視と管理を強化するよう命じていることがわかる史料。
「浦之内番定式」
 異国船への対応や浦を出入りする人や物資の管理、難破船への対応など、浦役の心得が記されます。
「田地雑記」
 主に野中兼山執政期から寛文改替期、貞享期までの土佐藩の税制の変遷を述べたものです。田畑に関する種々の税について記されています。
「文化五辰年正月十一日御馭初諸組次第」
 土佐藩の正月の嘉例行事であり、かつ藩主が閲兵する重要な軍事的行事であった御馭初の規模の大きさを伝えます。
「参與雑記」
 慶応3(1867)年12月に新政府の参与となった福岡孝弟が、新政府の政治方針や、賊軍となった奥羽越の諸藩の処分などについての自身の腹案を述べたものです。
「明法新編」
 吉村春峰編集による古今の法の集成ともいえるものです。

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『土佐國群書類従拾遺』第2巻(法度部・主家部・系譜部)  10,285円

  第2巻は、巻12から巻20までを収めます(ただし、巻15・16は欠本)。これらの巻は法令関係を収める法度部の一部と藩主の事歴に関する史料を収めた主家部、各種の年譜類を収めた系譜部に相当しますが、その内容の一部をご紹介します。
「續明法新編」
 既刊第1巻に収録された「明法新編」の続編であり、鎌倉期から江戸時代までの各種法令を集めたものです。長宗我部元親の制定した「長曽我部元親百箇条」も収録されています。
 天文14(1545)年の誕生から慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦の後、土佐国主に任ぜられるまでの山内一豊の武功を綴った「一豊公御武功記」は、本書には前半部分は収録されておらず、天正19(1591)年の掛川での馭初以降の記事が収められています。また、「藩翰譜抜書」には、一豊の妻見性院が夫のために名馬を買うエピソードなどが記されています。
「容堂公附歩士某筆記」
 謹慎が解け、幕政改革に向けて気力十分の山内容堂の文久2(1862)年9月24日から翌年1月7日までの記録です。他藩の人々と酒席を中心に交流する様子や、家臣との関わりなどがリアルに描かれた、幕末史を考えるうえでもたいへん興味深い史料です。
「遺蹟後鑑」
 上中下の3巻から成りますが、上巻は2代藩主忠義、中巻は3代藩主忠豊、下巻は4代藩主豊昌の藩政をはじめとする様々な出来事を編年体で記したものです。
「古城主系圖雑記」
『南路志』闔国部のうちの古城の記述から、系譜部分を抜き出して整理したものです。
「武田氏家譜並系圖」
 代々庄屋を勤めた武田家の系図。明治になって第11代目の当主である武田信智が上京、三菱汽船から大蔵省、東京府と転職していく様が如何にも明治という時代を映しているように思われます。

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『土佐國群書類従拾遺』第3巻(傳記部)  11,000円

  第3巻には、巻21から巻24までを収めますが、これらの巻は傳記部の一部にあたります。
 応仁2(1468)年に前関白一條教房が幡多庄に下向したことに始まる土佐一條家は、戦国時代の土佐で百年余にわたって、長宗我部氏をはじめとする有力国人のあいだで独特な存在感を持ち続けました。
 「一條家之事」は、この土佐一條家に関する様々な資料をとりまとめたもので、内容としては系図の他、近世軍記物の土佐一條家に関わる部分や、康政の発した奉書形式文書等から成ります。
 土佐藩の記録方などを勤めた吉田孝世によって宝永5(1708)年に完成した『土佐物語』は、長宗我部氏の盛衰を中心に、一條教房の土佐下向から山内氏の土佐入国までを描いた、土佐における最大の軍記物語ですが、「土佐物語抜萃」は文字通りその抜粋であり、四巻構成となっています。
 「類聚土佐故事」は近世土佐を代表する儒学者谷秦山の著作です。土佐の国号や郡名・郷邑名の由来、歴代の土佐の国司や守護、神社、歌枕となった土佐国内の名所等々、具体的な文献をあげながら紹介する内容となっています。
 「土佐國古城傳記」は、土佐国内の中世の城砦を安芸郡から幡多郡まであげ、関連する出来事や城主の変遷などをまとめたものです。

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『土佐國群書類従拾遺』第4巻(傳記部)  12,000円

  第4巻には巻25から巻33までを収めます(巻31は欠本)。これらの巻は傳記部の一部にあたりますが、その内容の一部をご紹介します。
 土佐では、地下を支配する庄屋の地位が、藩政を通じて次第に凋落していく傾向にありました。庄屋たちはその状況を憂い、自らの職分に対する誇りと地位の回復を目指して連携を強めます。その動きが幕末の庄屋同盟にもつながっていく訳です。第4巻では、この庄屋に関する資料群がひとつの柱になっています。
 「盲人笻末路」(巻25)、「盲人笻」(巻27)、「證跡筆記」(巻28)などは、庄屋の歴史的職分について具体的な文書や事例を基に検証し、その地位の向上・回復を訴えるものです。特に「盲人笻」、「證跡筆記」は、天保庄屋同盟の指導的立場にあった細木庵常がまとめたもので、藩から土地と人民の総宰を預かる庄屋の誇りと地位を訴える内容となっています。さらに「同盟談話之條々」(巻29)は、庄屋同盟の思想的な背景を著したものであり、天保庄屋同盟研究の基本資料となるものです。
  また、「町役順席一乱端書」(巻29)や「大工頭等僭上無礼筆記」(同)、「違格難問」(同)など、庄屋の地位の低下を象徴するような事件と、それに庄屋が如何に対応したかの経緯をまとめた資料も収録されています。
 その他の資料としては以下のものがあります。
 巻26には「尾池氏主従之事」、「田の浦孝女之事」、「御飛脚番萬蔵夫妻事蹟」など、忠臣や孝子を顕彰する資料が収録されています。
 巻30の「復讐松魚魁」は、実際にあった廣井磐之助の仇討に題をとった仇討物語です。
 巻32の「土佐藩届書類」は、戊辰戦争における土佐藩の届書類をまとめたもので、官軍の一翼を担った土佐兵の奮闘ぶりをうかがうことができます。
 巻33に収められた「時態録」は、弘化3(1846)年の米国船の来航から慶応2(1866)年の孝明天皇崩御までの国内政治・外交・軍事・社会状況を示す様々な資料をまとめたものです。

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『土佐國群書類従拾遺』第5巻(傳記部・漂流部・地理部)  11,000円

  第5巻には巻34から巻39までを収めます。これらの巻は傳記部、漂流部、地理部にあたりますが、その内容の一部をご紹介します。
 巻34の「新聞歴史」は、日本における新聞の歴史について、土佐(高知県)の動向というよりは、全国の動きをまとめたものです。新聞発行に関する法令や新聞ゆかりの人物の評伝、裁判判決書などをもとに、明治12年までの新聞をめぐる状況をほぼ編年式に俯瞰するものですが、各地の新聞発刊状況の一覧のほか、新聞紙条例・讒謗律違反者のリスト、新聞禁止・停止表なども含まれ、自由民権運動や言論の自由について考えるうえでも興味深い内容となっています。
 巻35には、土佐沿岸への漂着船に関する史料が収められています。
 「漂流船聞書」や「宝永二年唐船入来注進」は清水浦(現、土佐清水市)に漂着した唐船、「寛永二十年土州近海江琉球船漂流之届書」は幡多郡沖ノ島(現、宿毛市)に、「宝暦十二年琉球船漂着之事」は幡多郡宿毛大島浦(現、宿毛市)に、それぞれ漂着した琉球船についての記録です。
 巻36の「南路志抜萃」は、文字通り武藤致和編『南路志』からの抜粋です。
 巻37の「弘岡企志」や巻38の「十市志」は、吉村春峰が庄屋として勤めた吾川郡弘岡上ノ村や長岡郡十市村の地誌です。
 また巻38に収められた「境論之記」は、土佐藩と宇和島藩との間で争われた、沖ノ島の藩境線をめぐる顛末の一部をまとめたものです。
 巻39の「高知縣管下土佐一圓區別」は、明治7年頃の高知県下の村名を東の安芸郡から西の幡多郡まで列記したものです。

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『土佐國群書類従拾遺』第6巻 (紀行部・歌文部・詩筆部・教訓部・釋家部)  12,000円

  第6巻には巻40から巻58までを収めます(巻46、48、50は欠本)。これらの巻は紀行部、歌文部、詩筆部、教訓部、釋家部にあたりますが、その内容の一部をご紹介します。
 巻42に収録された「松山開城記」は、幕末維新期の土佐藩の松山領への進駐および松山城接収の記録です。朝敵とされた松山城内の人々の思いや、土佐藩による具体的な占領統治の有り様、長州征討の際の松山藩の行動に遺恨を持っている長州藩兵の動きなど、興味深い内容を多く含んでいます。
 巻43には、藩政後期の国学者で『万葉集古義』の大著をものした鹿持雅澄の著作である「萬葉集枕詞解」を収めます。全五巻で、文字どおり『万葉集』に出る枕詞を五十音順に並べ解説を加えたものです。一度も土佐から外に出ることのなかった雅澄ですが、その『万葉集』をはじめとする和歌についての博覧強記ぶりには驚かされます。
 巻49の「滄浪亭存稿」は、幕末の志士で土佐勤王党に加盟して勤王運動に奔走した間崎哲馬(号、滄浪)の漢詩集。藩政改革を目論み、平井収二郎、弘瀬健太らとともに中川宮の令旨を得たことが山内容堂の逆鱗に触れて切腹を命じられ、文久3(1863)年に30歳の若さで世を去った滄浪。ここに収められた漢詩の数々からは、才気走った彼の情熱が伝わってくるようです。
 巻51の「寧浦先生文集」は清岡道之助や岩崎弥太郎など門人千人と称された儒者岡本寧浦の漢詩文集。
 巻54の「寺門録」は、『南路志』の地誌から寺院に関する記述部分を抄出したものです。

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『土佐國群書類従拾遺』第7巻 (雑部)  13,000円

  第7巻には巻59から巻70までを収めます。その内容の一部をご紹介します。
 巻59の「脚氣治験説」は久松重家が明治11(1878)年に著したもの。脚気の予防および治療法についてまとめています。 当時原因不明の難病であった脚気には、その予防や治療についても珍説を含め様々な説が主張されていましたが、本史料もそのうちの一つです。
 宿毛市平田の藤林寺は土佐一條家の菩提寺ですが、巻61の「一條家御用ニ付藤林寺上京諸記録」は、土佐一條家の由緒などを知りたい京の一條家から呼び出しを受けた藤林寺の僧二人の、 文化14(1817)年正月から3月にかけての京までの往復に関わる文書をまとめたものです。一條家からの呼び出しということで、送夫や伝馬の手配など藩が様々な便宜を図っていることなどがわかります。
 己(き)閑(かん)とは、高岡郡久礼城主で長宗我部氏の部将であった佐竹親辰(ちかたつ)の別称、己閑斎を指します。慶長5(1600)年、関ヶ原戦後の長宗我部氏改易の際に、 長宗我部氏の居城浦戸城を守っていた佐竹己閑斎は、当初抗戦姿勢を示しますが、やがて開城し、泉州堺へと去りました。巻62の「己閑文書」は、 この時己閑斎が久礼にいる家老らに宛てた書状等からなり、時代の転換期の非情さと、そこに生きる人々のたくましさを読み取ることができます。
 巻63の「邉(へたの)海松(みる)布(め)」は、古語等の用例を出典を明らかにしながら多数挙げ、その意味や近世語との関係について自身の所見を付記したもの。 著者は近世土佐最高の国学者である鹿持雅澄であると目されますが、雅澄の博覧強記ぶりがよくわかる史料です。
 そのほか、明治初めの高知城下の各町や事物、それらにまつわる伝承などをまとめた「高知町鑑」(巻65)、 奥宮正明が長宗我部地検帳に出る給人を帳ごとにまとめて適宜解説を加えた「秦士録」(抜粋、巻66)、 津呂や浮津など土佐東部での鯨漁業の起源から発展までをまとめた「鯨漁業根元聞書」(巻68)など、多彩な内容となっています。

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